天使が天秤の杯を抱き締める。だから悪魔は天使の羽をもぎ取って、その純白の血を飲み込んだ。醜い言葉を吐き出すたびに自分の中のなにかが死滅していくのを、どこか客観的に感じた。死はとても近しいもので、生はとても遠いものだったから。窓に付着した結露を、指でやさしく撫でてみれば、耳に突くような音がして思わずそれを塞ぐふりをする。つう、と穢れた排気ガスで侵された灰色の水が、頭を垂れる。外気と内気の温度差が生み出したその水溜まりが、まるでわたしたちのすべてを物語っているようだった。ゆるやかな腐敗に身を委ねる最中、もしも、とか仮に、とか叶うことなら、とか当てもない、途方もない祈りを幾度となく口にした気がする。だからわたしはあなたを失うのだろうし、だからあなたはわたしを堕落させたのだ。啼いているのはだれなのか。泣いていたのはだれだったのか。ないていたかったのは、もしかすると、あなただったのかもしれない。そうすることで、飲み込んだ血の薫りに鳴き声は掻き消されていくだけなものを。

「ずっとだから」
「、たとえば?」
「きみのように」
「閉じ込めて?」
「でも抱かない」

死はとても近しいものであり、生はとても遠いものだったから。灰色の水溜まりが、どうしてあなたの足を休めることができようか。髪をすくやさしい指先の感覚。ごめんね、もありがとう、もわざとらし過ぎる。また、窓の結露に指先で撫でた。あなたとはちがう、やさしくない卑しい指先で。耳につくような音が鼓膜に響いた。耳は塞がなかったから。天使は死んだのだろうか。悪魔は腐敗したのだろうか。甘美な血の味に嘔吐するわたしたちは、灰色の水溜まりに足を竦ませる。どろどろに溶けて、なくなってしまえばいい。そうすれば、きっとわたしたちは天使が抱き締めた天秤の杯を、抱き締めることができるのだから。

「それでも」
「泣いて?」
「できない」
「どうして」

先の言葉は知っていた。天使が天秤の杯を抱き締める。だから悪魔は天使の羽をもぎ取って、その純白の血を飲み込んだ。わたしも飲み込めると思っていた、抱かれると思っていた。灰色の水溜まりで立ちすくむわたしを、あなたはきっと腐敗していく血の雨を降らせるのだろう。そうして、やがてどうしようもない朝は明けて、夜が静かにわたしを飲み込む。あなたの指先が、髪から遠ざかる。もう、決して触れないことを知っている。もう二度と抱かないことを知っている。

「愛していないから」

最初から、愛されないことを、知っている。

 

愛される人へ

 
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