呼べば弱くて脆い気持ちが、崩れ落ちてしまうような気がした。だから呼ばなかったし、呼ぶ必要もない。俺はたぶん、強かったんだとおもう。もしくは、強さを勘違いして己が強いと過信して、それが幻だとわかった上で、理解した上で、まるでそれは洗脳のように自分に言い聞かしていた。そうすることによって自我を守って、自己の安定を図っていた。もう釣り橋も壊れた安定感のない天秤のように、危うい均衡の上を歩いていた。たとえば海の上を人間が歩くことができるくらい、平行線を保っていられたなら、こんな馬鹿げた結末は用意されていなかった。しかしながら実際のところ、人間にそんな超人的な能力は備わっていなかったし、事実、おそらく遠い未来を想定しても、人間が海の上を歩くなんて不可能なんだ。青い薔薇が、遺伝子組み替えを幾度行っても完璧なそれを作り出すことは不可能だった。人類の限界を垣間見えるそれに、人間は不可能と名付けた。それとおなじだ。

呼べば弱くて脆い気持ちが、崩れ落ちてしまうような気がした。だから呼ばなかったし、呼ぶ必要もない。たぶん、涙を俺は捨ててしまったわけではなかった。きっと泣き方を忘れてしまっただけで、産まれてコインロッカーに捨てられた俺に、泣き方を教えてくれる人間も、甘え方を教えてくれる人間もいなかった。ただ、成長とともにセックスのやり方だけは教えてもらったから、それが愛なのだと錯覚した。精液を吐き出したあとの、あの言い様もない虚しさが襲うのを、俺は思慕なのだと誤解した。ただ、女の子の柔らかな体内にいる瞬間だけ、なぜか叫び声をあげたくなるほど腹の底が焼けるように痛んだ。もしも、俺が、顔も覚えてない母親から産まれるまえ、教科書通りなら、俺は母親の羊水の中にいたんだろう。羊水の中で守られて、羊水の中で包まれて、どこか懐かしいそれの中で眠った。けれど、考えれば考えるほど、俺は俺を殺していく。もしかしたら、俺の守られていた、俺の包まれていた、俺の眠った羊水って青い色をしていたんじゃないのか。不可能。そうやって産まれたから、俺はコインロッカーが産声をあげた初めての場所になったのではないか。

呼べば弱くて脆い気持ちが、崩れ落ちてしまうような気がした。だから呼ばなかったし、呼ぶ必要もない。名前を知らない人間の名前を呼ぶことも、不可能だったから。青い空の下で青い羊水の中で青い海の上を歩いて、遠吠えのように青い俺が咆哮。不可能だらけ、だれに伝わるはずもなくだれに伝えたいわけでもなく、だれに伝えるわけでもない。それでも俺の、青い心なんて呼べるほど大層なものでもないのだけれど、それが諦めたくないと呼んでいる。お母さん、母さん、おふくろ、ババア。どうやってその名前も知らない俺を作った片割れを呼べばいいのかもわからないけれど、もしもあんたとセックスをして、俺が守られて俺が包まれて俺が眠った青い羊水が在った子宮に、俺の精液を吐き出せば、言い様のない思慕を愛情だと返還できるだろうか。

(それでも俺は呼べば弱くて脆い気持ちが、崩れ落ちてしまうような気がしたから、またなにも呼べずに不可能の中を彷徨うしかないのだけれど。)

たとえばひとつになれたらどんなに

 
inserted by FC2 system