「栞はなんでも欲しがりすぎるんだよ」

言った瞬間妹のいまにも泣き出してしまいそうな顔と、左頬に強烈な一撃があった。叩かれたと気づいたときには、響いたはずの乾いた音も鼓膜を揺らさない。僕を叩いたのは妹なのに、妹の顔色に怒りはなく、ただ悲壮が淡々と宿っているのに心底呆れてみせた。だけど妹は僕がこんな風に幻滅したような眼差しで彼女を見ても、彼女の涙腺を揺らすのは僕のそんな侮蔑ではなくて、彼女の中に宿る劣等感と性欲だけだろうな。人並み以上のものを与えられ続けて、恵まれた環境で生活し続けて、早々とそんな近い将来息苦しくてたまらないのだろう生活から逃げた兄と僕は、妹の苦痛を知らないわけで、だからこそ彼女はこんなにも歪んでいるわけだ。

些細な賭けだった。僕らの兄が実のきちんと血の繋がった妹に迫られたとき、流されるままに寝てしまうかどうか。妹が寝る、僕は寝ない、に賭けた。あたしが勝ったらお兄ちゃんが貯めてるお金全部ちょうだい。どこまでも金のためだけに寝れる売女になってしまったのか、それとも遊び半分の悪戯心だったのか。だから僕は、寝なかったら僕と寝てよと言ってみた。もちろん僕は、そんなの本気じゃないし、彼女が本当に兄の部屋におしかけてセックスを持ちかけるとは思わなかったわけだ。

ところが、どうだ。いきなり部屋に入ってきたかと思えば声もかけるひまもなく彼女は服を脱ぎ出すし、下着姿になるまでそれに唖然として呆けていた僕も僕だけど、下着姿までも無言のままで脱ごうとする妹の腕をはっとしてつかんでみれば、きつく眼光を輝かせて、黒く塗られたありえないくらい長い睫毛(たぶんつけまつげ、)と青い瞳(たぶんカラコン、)で睨んでくる始末だ。その時点で、大方のことは理解できて、はあ、とひとつため息をついて、冒頭に至る。

「もうちょっとだったの」
「でも駄目だったんだろ」
「駄目とか言わないで!」
「ほかにどう言えって?」

とりあえず服着なよ、と脱ぎ散らかした服を指指す。とは言っても、ありえないくらい短いスカートと、ありえないくらい露出度の高いキャミソールしか着ていないのだから、いまの下着姿と何ら代わりはないのかもしれない。それでも服を着ない妹にまたため息。小さいときは本当に泣き虫だったのを思い出して、ああ泣くかなとか思ったけれど、彼女は唇を噛みしめただけで泣かなかった。ピンク色に塗られたグロスが落ちて、けれど噛みしめすぎて血のような朱さに変わっていた。ゆっくりと指を伸ばして、妹の唇を割る。そう言えば幼いとき(ほんの幼稚園のころ、)こうして彼女は泣く前に唇を悪いときは血が滲むまで噛みしめて泣くのをこらえるくせがあった。(結局あの頃は泣いてしまうのだけれど。)(いまは、泣かない。)一瞬だけ妹が困ったような、それでも泣きそうに顔を歪めた。

「お兄ちゃん、あたしのこと好きなんだよ」

知ってる。そんなこと、きみよりもずっと小さなときから、ずっと。兄は妹が好きだ。それは恋愛感情で、そして性的な意味も含めて。けれどその感情だけで兄が妹に流されてしまうほど常識を欠いた人間ではないことも、僕は知っているし、モラルをきちんと兼ね揃えたブレーキを持っていることも、僕は妹よりもずっと知っている。

僕には妹がなぜこんなことで血が滲みそうになるまで唇を噛みしめてしまうのかが理解できない。本当にセックスしてくれると思っていたのだとしたら、それはあまりに軽薄な考えであると言わざるを得ない。実の兄妹だ。血が繋がっている。僕らの両親は本当にふつうの、そしてふつうよりもすこし恵まれた人間だから、その人たちを悲しませるような真似を兄がするはずがないのだ。(それはあくまで面の顔であって、影で、ということは、考慮にいれない。)僕らよりもずっと善良な両親に育てられた妹ならなおのことそう思うと思うのだけれど。まあ、考えれば、逆のパターンもあるわけだ。

そんなにもこつこつと貯めた僕のお金がほしかったのだろうか。ていうかいまさらだけど、なんで僕がお金貯めてるって知ってるんだよ。まあ、たぶん合い鍵を使って僕が留守のときに勝手に部屋に入り込んで、勝手に通帳を見たんだろうけど、妹の頭の中にはプライバシーってものが存在しない。本当のところ、彼女がいまこんなに泣きそうになっている理由は、僕のお金をもらえなかったからでは、増してや兄と寝れなかったわけでもない。どうしてこうも、歪んでしまったのか、と一瞬だけ馬鹿みたいな疑問が頭の中に浮かんでまたため息。歪めたのは僕らじゃないか。

「じゃあ、僕と寝る?」

悪戯のつもりで、言ってみたら、また妹がひどい形相で僕の唇を割ったままの指を振り払った。きみ、けっこうモテるらしいけど、そんな顔見せたらモテなくなるよ。

「馬鹿にしないでよッ!」

どうしてそうなる。大体彼女がいま下着姿なのは僕と寝るという約束を守ろうとしてたからじゃないのか。

目が赤く染まっている彼女はやっぱり泣かなかった。小さいときは声を振り絞って泣いていたくせに。兄や僕が長い時間家から離れて、両親やもちろん妹からも離れて暮らしていたら、そりゃかれらよりも大切なものが当然できてしまう。家族の絆なんて本当はただでさえ呆気ないくらい脆くて、それに加え中学からずっと遠くの寮で暮らしてたんだから、あたりまえじゃないか。それでもそのことを妹はどうしても許せないらしい。

一見自分勝手なのは妹に見えるけど、実際自分勝手で独占的なのは僕らだってことも、僕は自覚している。(兄はどうか知らないけれど、)だって、妹を守るために離れたわけじゃなく(それは自分を守るため、と同語で、)僕は妹を壊すために離れたのだから。(しかし僕の場合、僕自身を壊すことと同語ではなくて、)僕はどうあっても、妹を愛す気なんてさらさらないんだけど、この加虐思考とさみしさの羅列が愛に加えられるなら、目の前で歪む彼女を抱き寄せることくらい、叶うのかもしれない。


inserted by FC2 system