鼓膜に刻みつけたようにはっきりと覚えているその言葉がとても愛しいのに嫌になるくらい後ろめたい。純粋で純朴な目で見つめてくるそれが潤んでいたことを覚えている。弟も同じように思っているのかなにも言わなかったし、だからと言って笑い飛ばすことさえもできなかった。俺が座っていて妹が立っていたから妹のほうが背を大きい。それでも俺が覚えている限り一度だってきちんと背筋を伸ばして立った俺を妹の背は追い越すことはなかった。決して妹が小さい部類だったわけじゃなくて、俺の背が高い部類だったわけでもなくて。ただそこには歳の差と、男と女の差がありありと表れていた。
「なあ弟よ」
「何ですか兄さん」
「おまえ覚えてる?」
「…何をですか兄さん」
机に伏して寝ている妹の睫毛がやたら長い。こんなにもつけ睫毛しなくてもおまえ元から睫毛長いんだから、なんて言いたくても言えなくなった。昔ならばこんな小言みたいなことをすぐに思いついた矢先口に出せていたのだろうか。言わなければいけないことを言うことはきっと妹をとんでもない堕落の道に誘うことだと理解してから、それを封印するようになった。それはとても簡単なことで、とても魅惑的なことだった。だって本当のことなんて向き合わないほうが楽だし身軽だ。口を噤んだ俺のことを一番知っていたのは弟だろう、だって弟だけは俺を見透かしたように嘲るようにその眼鏡の奥から双眸を覗かせていた。栞、おまえが俺に言う想いと俺がおまえに寄せる想いは違いすぎる。
「何でもない」と言おうとした唇が空回る。酒が入ってるせいだと言い訳をする、最もだろうだって俺酒が入ると呂律が回んなくなる。さらりと揺れる妹の髪に思わず手のひらを伸ばせば、寸前で弟に掴まれる。思わず非難するように弟を睨んでから、己の愚かさを痛感してしまった。なにをしてるんだって話。ばっかじゃねえのこんなの、栞も俺も眩暈がするくらい蛇の路に迷い込むだけだ。言おうとした言葉の変わりに「ありがと」と言って手のひらを引っ込める。
あのとき俺を見下ろしながら潤んだ大きな瞳がただただ純粋に疑問と疑念と不安を述べていた。路頭に迷ったようにどうしようもない思いが走っていた、どうしてもそれに頷くことができなかったのは幼さ故だった。手のひらに包んでいる妹の小さな指先の感覚、いまでは触れることができなくなった変わりにあのとき言えなかった軽口もそれに由来する偽りさえも簡単に吐けるのだ。
「うそだよ」
同じように妹を、同じような視線で見つめながら弟がいつだって俺に向けていた視線と笑みを携えて、俺に向けるわけでもなく喉を鳴らす。
「よく覚えてる」
弟の指先だって俺には簡単に触れるけど妹には決して触れない。まるで透明な棺に入れるかのように大切にしているくせに、一切触れてはいけないものであると理解ってしまった。きっと妹だってあのときと同じように大きな眼を潤ませることなんてしないのだ、勝気に大きな瞳が長い人工的な睫毛に覆われるようになったことと等しく、変わってしまったものと変わらないものがまざまざと速度を増して心臓を穿つ。
もうあのころと同じように、無邪気に笑っていられない。この痩せた指を引けるのは俺たちではない。独占も束縛もしてはいけない。だって俺たちはもう餓鬼じゃないし、他人じゃない。幸福を願っているのに、本当に願っているのはいつだって。反吐が出る、過去に執着しているのは俺だ。なあ栞、おまえは忘れたのかな、俺は忘れることなんてできないよ、だってあんなに悲しそうに暮れたおまえの声は初めて聞いたから。
「お兄ちゃんは離れていかないでしょ」

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