兄はよく僕に、「おまえなに考えてんの」と問う。補足するなら、僕は他者に、おまえ、と呼ばれるのを好まない。名前を知っているのだから、それを呼べばいいのに。確かに僕の名前は、たとえば中学やら高校やらでいつも女子に間違えられるくらい、紛らわしいけれど。そして、さらに言うならば、兄が僕にそう聞いたとしても、兄が本当に僕の答えを待っているのかは、全く別の問題だった。そのたびに、「さあ、」とか「べつに」とか曖昧な答えを返せば、特に何の興味もなさそうに、相槌だけ打って視線を僕からまたテレビの液晶へと戻した。

カチカチとコントローラーのボタンを潰すような音だけが響いて、無駄に広い部屋が虚しく感じた。大学に通う際にアパートを借りたけれど、僕の通う大学の最寄りのアパートは学生に非常にやさしくない。ファミリーマンションや高級住宅が立ち並ぶ金持ちだらけの団地である。学生向けのアパート、またはマンションをひたすらに探して、ようやく見つかった一番安くて一番狭い物件がいまの住まい、11畳で七万とか良いのか悪いのかわからない。でも、オートロック完備でトイレと浴室が別々だからかなり良い物件だったのだろう。学生で11畳のマンションとか贅沢に聞こえるけれど、掃除が大変だし栞は家出ついでに入り浸るし兄もたまに訪れてはゲームして片づけないし、贅沢もあまり気分のいいものじゃなかった。それこそ、世の苦学生が聞けば激昂しそうな言い分ではあるが。

兄がゲームをしてるので、音楽も鳴らせないわけで、でもなにか喋っても邪魔をするだけだしむしろ兄の耳に入るかどうかも謎なので、手持ち無沙汰に携帯をいじった。携帯のけたたましく鳴る音が不快なので、授業中じゃなくてもずっとサイレントマナーにしているせいで、たまった着信とメールを表情も変えずに眺める。どれもが他愛もないような雑事で、この人たちはどうして僕にメールやら電話やらするのだろう、と不思議に思う。着信が続けて二回入っていた女性の名前を見ながら、しかし顔も思い出せない。その後、深夜に一件だけ入っている妹の名前だけがはっきりとわかるだけ。自分が薄情だとも馬鹿だとも思わない、だって僕に電話を入れた顔も思い出せない女性も、きっとまたすぐ違う男性にコールしているはずだから。だれかと繋がっていないと不安でたまらないという、何とも理解し難い人種なのだ。

数件のメールもまた同じ、妹の名前だけがはっきりとわかるだけ。しかもその内容もたったの二文字、『出ろ』。いまどきの女子高生なんだから、デコメールとかしないのか、と以前一度だけ聞けば、「客にはするよ」とさらりと言われた。自分に利益の与えてくれる人間には媚びを売ることを知っている、そのくせに自分に不利益を与える人間に媚びを売ることは知らない、まるで惨めで愚かな負け犬だと思った。たとえばそれを妹に言ったところで、妹はただ一言呟くだけだろう。「だからこうなんだよ」、と。

ここまで僕が妹を知っているのは、僕がかれらを非常に達観視しているからだ。だから、兄は妹を理解できないのだろう。

「皐さ、彼女とかいないの」
「いないよ。要らないし」
「でもほら、ずっとおまえいないでしょ」
「兄さんもいないくせに」
「いや何で断定型なのかな」

また、おまえって言った。心の中で思いながら、携帯をぼんやりと見ていれば、節電なのか液晶の光が消える。格ゲーをしているので、テレビからは絶え間なく必殺技の叫び声が流れた。どうやら兄が押しているようだ。声だけ投げかけて、視線はこちらにやらないのは、ゲームに集中しているからか、それとも。(それでも、その答えは、)だって、と僕が兄の肩くらいまで伸びたアッシュの後ろ髪を見つめながら、兄と同じように(だれが求めてるわけもなく)空気に乗せる。

「栞がいるし」

カチ、とコントローラーのボタンを潰す音が途切れる。コンピューターが動かなくなった兄のごつい肉体的なキャラをここぞとばかりに攻撃し出すのが、兄の肩越し見えた。

それは、だれにとってなのか。妹がいることは、僕たちが生まれて少し経ってからあたりまえになった日常で、けれど、だれにとってなのかそれは徐々に非日常に変わってゆく。僕たちは総じて妹から逃げたふたりではあるけれど、その意図は違う意味を持つことを兄は知っているのだろうか。

たとえば、僕に二回も着信をくれた顔も思い出せない女性が、もしも僕に好意を持っていてくれていると仮定して、その想いを僕が受け入れて恋人同士になったとして。それでも、やはり僕の中では妹以上に特別はいないし、妹以上に嫌悪できる女性もいない。特別、は所謂愛ではなくて、嫌悪、は所謂排他的な感情ではない。だから、僕は恋人は要らないし、必要性も感じない。それを兄に言ったところで理解なんて程遠いのだろうし、理解して欲しいなんて思ったこともない。だから話さないし、話せない。

手のひらの中の携帯の液晶が前触れもなく光る。視線を兄からそちらにうつせば、また顔も思い出せない女性の名前を表示されていた。カチカチと、またコントローラーのボタンを潰す音が再開して、テレビから必殺技が連呼された。押していたのに、また追いつめられたようで、巻き返そうとしているように見えるけれど、兄にそんな気がないことがわかってしまう。(いつもそうだから。)追いつめられれば、それ事態がめんどくさくなってしまうのだろう。(僕とは反対で、)手に入らないとわかっているものには、手を伸ばすことをしないのだ。

「ねえ、兄さん」
「なーに」
「栞が好き?」

携帯の液晶はまだ光り続けている。妹はこんなことはしない。何回も執拗にコールを鳴らしたり、ましてやその相手から無関心だとわかっていれば番号すら登録しない。そんな面では、妹は気丈な強さを持っている。(それは、きっと)兄にも僕にもない強さ。(臆病だということで。)ゆっくりと兄が僕に振り向く。その表情は、まるで、

「あたりまえでしょ」

それが当然であるかのように。

親指を電源ボタンに移動させて、着信を断ち切った。次いでテレビから兄が負けたことを知らせる音楽が響く。「僕もしていい?」と聞けば、「いいよ」と兄は笑う。携帯をベッドに放り投げて、無造作に床に放られたコントローラーを握った。

「なに考えてんの」
(べつになにも。ただ、)
「ただ?」
(可哀想だなって)
「なにが?」
(知らないから)
「なにを?」
(さあ。僕にはわからないけど)
「…あっそ」



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