「あんたなんて、」

震える声で言ったって意味なんか何にも持たない。言葉の続きは無様に綺麗に掃除された埃ひとつないフローリングに消えた。皐はそんなあたしの声やあたしの表情になにひとつ顔色が変わることはない。知ってるよ、あんたはあたしが多分死んだってそんな風に無頓着でどうでもいい顔するんだろ。

年子の兄の前では、こんな風に弱々しくあまりにも屈辱的な声を出してしまうことは幼いころから多かった。年が近い分衝突も多々あったし、ありふれた諍いなんて日常茶飯事だった。泣くのはいつだってあたしのほうで、泣かすのはいつだって兄のほうだったけど、きっと皐に「あたしを泣かせた」ことによる罪悪感なんてないんだろう。こいつにあるのは、あたしを泣かせた自分への「優越感」だけだ。歪んでるのはお互い様だけど、あんたは自分よりも強い人間も弱い人間も関係なく見下せるから質が悪いんだ。

最初にあたしがイジメられたのは小学生のときだった。元々集団行動が得意なほうではなかったことも手伝って、どこか連帯感の強い同世代の女の子たちに馴染めずにいた。どうしてトイレにみんなで行くのかがわからなかったし、どうして体育のときに若い先生に媚びを売るように慕うのかもわからなかった。それでも、そんなことを口に出すほどあたしは浅はかでもなかったから、馴染めなくても不快でも、ぼんやりと意味のない集団の傍にいた。だからイジメとかにはあたし自身は関わってはいなかった。

小学五年生のころだったと思う、音楽の授業にリコーダーを使っているときで、それは六年生も一緒だった。音楽祭みたいな発表会でクラスで演奏を披露するから、みんながみんなリコーダーを持ってて、もちろんあたしも持っていた。忘れたら音楽の授業で嫌でも孤立するし、人気がない毛嫌いされている音楽の先生には目をつけられるし、することがなにもない45分って結構苦痛なことだった。あたしは少なくともそのときは、浮いてはいたけど孤立はしたくなかった。怖かったし、同じクラスの一緒にいる女の子たちから嫌われるってことは、世界から爪弾きにされているようなことだと思っていた。無理もない、だって小学五年生だった。まだ、あたしは11歳だった。幼かった。ただ、歳を追えば大人になるってことはちょっと違う気がするけど。でもあたしの世界は、クラスの一緒にいる女の子たちの価値観の中で動いていた。

あたしはその日音楽の授業はなかったけど、忘れたら嫌だし、幸いあたしは家で練習なんてしなくても、小さいときからピアノを習っていたせいか、授業中で吹けばすぐにできた。楽譜を完全に覚えることは無理だったけど、でも遅れをとることはなかった。だからリコーダーも学校に置いて帰っていたから、音楽がない日でもリコーダーがあった。そんな他愛もない日、もうすぐ授業だってときに、クラスのドアが空いて名前を呼ばれて振り向けば、ひとつ上の兄がいた。「リコーダー貸して、忘れたから。洗って返すし」と言われて、ふたつ返事で「いいよ」って言った。兄がリコーダーを受け取って教室から出ていったあとも、べつにざわめきは変わらずにチャイムが鳴るのを待っていたときだった、後ろで聞き慣れた高い声が、声を潜めて、それでもあたしに聞こえるように囁く。

「普通、リコーダー貸す?お兄ちゃんでもさあ…気持ち悪いよね」

全身の血が引くってこんな感じだと思った。振り向かなくてもだれかなんかすぐにわかった、いつも一緒にいる女の子たちの中のひとりだった。それも、一番権威の強い女の子じゃなくて、そんな権威を強い女の子にいつも媚びを売って、まるで金魚の糞みたいにくっついてる子だった。あたしはそのときはその子に対する自分のこの感情が何なのかは理解していなかったけど、いまなら理解る。あれは侮蔑と嫌悪だった。あたしにその子を疎う権利なんて、それこそ塵もなかったのに。

怖かった、嫌われるのも侮蔑されるのも嫌悪されるのも、すべて恐怖だった。それはそのとき、あたしの中で、この世界に拒絶されることと同義だった。そんなちっぽけなことにばかり気をとられすぎて、それでもそれが軽薄なものだったとはいまでも思えないけど、少なくとも知恵も知識も足りなかったことだけは確かなことだ。

しかし、やっぱりあたしには理解できなかった。どうして女の子同士つるんでトイレに行くのはあたりまえで、血を分けた兄にリコーダーを貸すのは駄目なのか。汚いとかそんな理由なのか、汚い?皐が?少なくともあたしの知る皐は、あんたたちやあたしみたいに集団で居なきゃ呼吸できないとかいう脆弱で馬鹿馬鹿しい思考の持ち主ではなかったし、体育のときに若い先生に媚びを売るような器用なやつでもなかった。どこが汚いの、本当に馬鹿みたい。リコーダーなんて貸したっていいでしょ、どうでもいいことじゃん。

それでもあたしはそれをその子に言う勇気なんてそのときにはなかった。まだ小学五年生だった。まだ11歳だった。幼かった。影であたしをあざ笑っていたくせに、次の休み時間に返ってきたリコーダーを受け取って、兄が教室から出て行ったあとに、その子たちはあたしに「仲がいいんだね」とわざとらしく嗤った。わらった。

あたしがなにより屈辱的だったのは、それを境にして陰湿な嫌がらせをされたことじゃないし、権威の高い子に媚びているような子に虐げられるようにあざ笑わられたことでもない。わざとらしい笑みでそう言われたとき、へらりとその子のご機嫌をとるように笑った自分にだった。それは、兄にリコーダーを貸さなければよかった、と思うことと同義だった。そんなことを、そんなあたしが嫌悪するちっぽけなことを思ってしまった自分を、強く恥じた。

きっと皐は、あたしと同じ立場になっても凛としていられたんだろう。根拠もなくそう思う。皐はあたしを傷つけることをしない変わりに、あたしを慰めることもしない。頭を撫でられた記憶は幼稚園までだ。だからあたしは、皐の前でだけは裸になれる気がする。皐の前でだけは醜い自分を晒してしまう。どうしてこうもくだらないことばかりに気をとられなければならないんだろう。リコーダーなんてどうでもいいのに、あたしはあたしに「リコーダーを貸して」と言った兄をどこか憎んでいた。あたしが歪んだのは、あたしをイジメた子でも皐でもなく、あたし自身の弱さのせいだってわかっていたのに。

「相変わらずだね」
「……うるさい」
「多分、それはさ」

兄の視線はあたしから、また読んでいた文庫に戻った。どうせまた歴史の本かよくわからないビジネス書だろう。兄はあたしを決して自分から傷つけたりはしない。その変わり、救いもしない。慰めないし、同調もしない。案の定、兄の手はあたしに伸ばされることはなかったのだから。

「同族嫌悪ってやつだろうね」

嫌われることがいまでも怖いってことをひた隠しにして、だってそうしなきゃ嫌われ者のあたしは生きていくことができなかった。平気だよって、好きなだけ嫌えばいいじゃんって強がって見栄張って馬鹿みたい、でもきっと皐はそんなあたしを知ってくれてたから、そんなどうしようもないほど臆病で恐がりで、意気地なしのあたしを知ってくれてたから、あたしはいまでも、これから強がっても見栄張っていくことができる。

多分また同じことがあったとして、リコーダーをあたしは迷わずに兄に貸すんだろう。律儀な兄はそれをわざわざ洗ってあたしに返して、あたしは同じようになにも言い返せずに、意味のない後悔をする。でも、やっぱり昔と同じように、あたしは意味のない後悔をすることに、後悔することはしないんだろうね。
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